「食」は人を良くすると書く。いつどこで誰に教えてもらったのか、もう記憶にない。なるほどなぁ、と感心したのでそれ以来機会があれば使っている。
私は食への関心が高い、思い入れがあり、こだわりがあり、いわゆるうるさいのかもしれない。好き嫌いはない。自然のものならほとんど何でも美味しいと感じる。でも普段の生活では肉は食べないようになった(結婚式とかでは食べる)。無理をしているわけではない。自分と動物の関わりを考えてみると個人的には食べたくなくなった。食べたいと思うこともほとんどない。自分が食べる「食」というものに納得がいくかかどうか。それが大きな理由だ(その関わりからいうと食としてはジビエ(野生鳥獣肉)のほうが納得がいく)。でも個人的なそのこだわりのために家族には時々迷惑をかけている(家族はみんな普通に肉を食べるから)。少し話しがそれた。
人を良くすると書く「食」。しかしスーパーやコンビニに代表される日常の食は今やすっかり自然からかけ離れてしまっている。経済や利便性が先行し「生命」は軽視されている。一部の「こだわり店」を除き、どこで何を食べても買っても、そこにはほとんど「自然」はない。それは言い過ぎだと言われるかもしれない。でも何かしらの化学的な施しがされていない「食」を探すことは難しい。それはこだわりである。
何らかの化学的な施し(農薬、添加物など)が加えられた食べ物はやはり美味しくない。そして自分にとって美味しくないものは自分の身体にあっていない。それは味が不透明なベールで包まれているか、舌の上っ面にしか反応しないか、もしくは何かしら身体が抵抗する。本当に美味しいものは、身体にとろけていくように馴染み、魂に響き(表現が大げさだが、本当にそう思う)、喜びを感じる。これが、人を良くする「食」であろう、と思う。食で身体を害してはいけないのだ。
自分達で無農薬で無化学肥料で育てたお米と野菜を、自分達で料理する。その初めからの行程はとても長く、そしてとても面倒くさい。お手軽、簡単、快適、便利・・・いや食は本来とても面倒くさくて、口にするまでの道のりは本当に大変なことなのだ。でもそれは美味しい。どれだけ質素に見えても。ご飯、味噌汁、漬け物、ごま和え、「こんな美味しいもの嵐山の吉兆にでも行かな食べれへんで」が私の口癖で、「そんな大げさな、吉兆に行ったこともないくせに」といつも決まって妻につっこまれる。
どこに行って何を食べても何を買っても無農薬・無化学肥料のお米や野菜ばかりで、食品添加物や化学的な施しがされていない、そんな自然本来の「食」に囲まれた世の中になって欲しい、そう心から願う。もしそうなれば私たちの今の職(自然農法農家)の意味や特異性は薄まるだろう。当たり前になるのだ。
人を良くすると書く「食」、食を大切にしたい。
そして食を含め色んな意味で私たちを育ててくれる自然を大切にしたい。