時雨

 昨日は午前いっぱい地域恒例の溝掃除に参加した。いつものことながら山のふもとの田んぼのある地域を維持していくのは大変だと思う。日本の農業における中山間地域の経営耕地面積はおよそ4割を占めているそうだ。
 グローバルな時代、山のふもとの猪や鹿が出る小さな田んぼだって世界の動きに直結しているはずだ。ボブ・ディランではないが時代は変わる、世界は変わる、今や農村はもう昔の農村ではない、農業だけで食べていける人がいっぱいいた頃とは違う、農業は高度経済成長と共に置き忘れ去られたのだ。
 よく言われているように農業の担い手の高齢化が進んでいる。とりわけ中山間の効率の悪い田畑を支えている人達の高齢化は着実に進んでいる。彼らはある意味、昔の人達だ、古き良き時代の昔の人達だ、田畑の一部であり地域の一部であることを自覚している人達だ、田畑を荒らすと地域に迷惑をかけてしまうと真剣に思い悩む人達だ。今、日本の、とりわけ中山間地域の田んぼの屋台骨は、この地域に迷惑をかけてはならないという老人達の思い悩みによって、その大部分が支えられているのではないか、そう思える。政治家さんや、ちょっと違うぜと言いたくなる時がある(まあ、人によって視点は違って当然だが・・・)。
 老人達や年配の人達といっしょに仕事をしていていつも思うのは、いつか彼らがいなくなると本当に寂しくなるなあということと(話もおもしろいし)、その精神性はずっと引き継がれていくのだろうかということだ。自分も含めて近代化に慣らされたものは自然を前にしてどこか脆弱なものに思えてしまう。今日は稲刈りの予定だったが、思わぬ昨夜の雷雨と午前の時雨で稲刈りを見合わせざるを得なくなった。さて、仕切り直しだ。(※上記、老人、昔の人は、敬意・尊敬を込めて、そう表現した)