東日本大震災から6年。この6年が長かったのか短かったのか、この6年は何だったのか、そして今この時をどう思うか、私の場合、未だに混沌としていると言えるかもしれない。
あの時見た空やあの頃の空気感は、時と共に確かに変わった。記憶も衝撃も悲しみも危機感も何もかも少しずつ薄れていく。もうどうしたって時と共に変化していく。でも何かの拍子に同じような調子で確かに思い出すこともあるのだ。
一昨日、空や田んぼを眺めながら農道を歩いていたら、ふと思った(感じた)。そうなのだ、永遠なのかもしれない(そう、時々本などに書かれているように)、今生きている世界(この世)で終わりじゃないこと、まだまだ続きがあること。だから逆説的なのかもしれないが、悟りみたいなものは必要じゃなく、悲しくても、切なくても、悩ましくても、失敗してもいいのだ、いつだってこれでいいのだ、そしてまた会える、いつだって会える、また笑い合える、別れなんてないと。
前述の、その混沌としている、そのひとつ分かっていることは、原発とか放射能とか、どうしたって捉えようがないということなのだ。土や草や虫や鳥や空や山や川や海や湧き水や雲や雨や太陽や星や月や・・・そんな例えば(私の日々の生活で言えば)自然農法の生命の循環の世界からは想像もできないことなのだ。
私達の社会は、その社会の価値観や方向性や目当ては結局何も変わらなかった。
♫ああ、俺は亀岡スタジアムなんかいらないぜ。
アユモドキ、アユモドキ、アユモドキはどこに行く。
ああ道路、道路、道路、いつまでたっても道路、もう道路なんていらないぜ。
走るのは車だけだろ?
あの動物はどこに行った
そう昔、確かにここに暮らしていたんだ。
ええ、おまけにあの山を切り裂いて新幹線も走らせるのかい?
もう俺たちは十分便利な暮らしをしているぜ。
これ以上自然を搾取して、これ以上一体何が欲しいのかい?
昔は川の中にもっともっと魚がいたんだ。
まだ子供だった頃・・・こんなにも変わるものなのか・・・
自然はすっかりやせ細ってしまった。
でも毎日草を刈り、虫と付き合う百姓は知っている。
自然がどれだけタフなのかを。
びっくりするくらい、とてつもなくタフなことを。多重構造になっていて、まるで底がないことも。
かしこい大人よ、頭でわかっちゃだめだぜ、身体がきしむぐらいにして知るんだぜ。
自然と人の身体は密接につながっているんだ、たぶん。
何かの生物が絶滅すれば、やはり人の中でも見えないところで何かが失われる。
自然がやせ細るということは、人の生命が弱るということ。
自然破壊?いやいやいや、本当は人が弱っていくのだ。自然はそんなにやわじゃないぜ。
耐えきれなくなると人は死ぬが、自然(の本質)は決して死なない、そう思う。
自然はとてもタフだからだ。
俺たちは自然に甘えて生きている。
俺たちは自然に甘えて生きている。♫
少し感傷的に過ぎるだろうか? こんなことを言っても何も変わらないのにな。
いつもありがとう。
3月11日忘れられない日。
被災者が受けたショックは計り知れない。
被災者の数だけの事情がある。決して一様ではない。